「風はなにいろですか Part2」出展のお知らせ

【グループ展参加のお知らせ】
来月の5日から始まるグループ展に作品を出展致します!
どうやら作品を人さまにお見せするのは二年ぶりになるようです(笑)。
この間僕の作品自体は色々と変遷がありましたが、お見せする機会がなかったのでどのようなご感想を頂けるか楽しみにしております。
展覧会自体は総勢四十名の方が参加する賑やかなものです。
僕はpart2の方に出展致しますのでよろしくお願い致します。

 

【会期】
「風はなにいろですか 」
part2 : 6月05日(月)‐6月10日(土)に出品致します。

【会場】

Gallery K
〒104-0031
東京都中央区京橋3-9-7京橋ポイントビル4F
Tel/Fax.03-3563-4578
e-mail : galleryk@nifty.com
http://galleryk.la.coocan.jp/
地下鉄「銀座」駅から徒歩6分
地下鉄「京橋」駅から徒歩2分

「確信の凝固展」開催のお知らせ

確信の凝固展圧縮01

【会期】
<個展>
「確信の凝固展」

2015年9月14日(月)‐9月19日(土)
11:30-19:00(sat.-17:00)

【会場】
Gallery K
〒104-0031
東京都中央区京橋3-9-7京橋ポイントビル4F
Tel/Fax.03-3563-4578
e-mail : galleryk@nifty.com
http://homepage3.nifty.com/galleryk/
地下鉄「銀座」駅から徒歩6分
地下鉄「京橋」駅から徒歩2分

 

9月14日から開催する個展に、「確信の凝固展」というタイトルを付けた。
画面の中で、画家が、絵画が成立したと確信する瞬間と如何なるものか。
痕跡にまで解体された絵画において、その条件とは、イメージ?
イメージとは最も個人的なものか。分節化。マーヤー。
独善であり、その意味で人は孤独なのか?


誰かが夜の火の粉に神を観た。
誰かが夜のとばりを裂いて確信した。
その確信を伝えておくれ。
たとえそいつが、意味を成さない呻きになるとも。

映画「アマデウス」、印象に残っているシーンがある。確かモーツァルトが「魔笛」の作曲中、彼に曲を依頼した劇団を夜中に訪ねたシーンだ。ピアノに向かう彼の背中では、骸骨が、眼を剥き出しにして笑う、劇団員の手の中で、これまたからからと笑っている。まるでそら今に追いつくぞ、と彼を追い立てるように。死に追い立てられ、死に追いつかれないために、モーツァルトはあの気違いじみた「魔笛」の序曲を演奏する。笑いながら。汗を流しながら。

死に追い立てられた時、僕らは一体どんな顔をするのだろうか。笑い、祈り、諦め、対峙、あるいは同化。死と同化した人間は、自身の墓場を求めて突き進む。そこが死人の居場所であるのだから。現在の日本は、後世に「死に追い立てられた時代」として記憶されるだろう。死と同化してしまえば最後、政治も、生命も、死人のように笑い、自身の墓場へ突き進むのだ。笑いなさい。死神の鎌で、身体をくすぐられているかのように。

このシリーズに着手して間もない頃、僕は夢の中で声を聞いた。

「俺の墓は何処だ」

はじめ僕はその声を、記憶されずに死んでいった人間たちの、記憶という墓標を求めて彷徨う声だと考えていた。それは間違いだったのかもしれない。あの声は、死に追い立てられ、死と同化し、墓場を求めて彷徨う僕自身の声だったのかもしれない。

 

divine, division, religion

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divine, division, religionと言葉を並べてみる。
神性、分割、そして再結合と訳してみたい。
re-ligionという言葉は、今日では宗教を意味するが、語源は再結合に近い。
宗教とは、人間が神との繋がりを感じようという文化なのだろう。
ゲルショム・ショーレムは『ユダヤ神秘主義』の中で、神秘主義を宗教史における「神話的一神教」段階とした。
それはショーレムの考える宗教の段階、神話的段階、一神教段階、神話的一神教段階という階梯のもとに定義される。
かいつまんで言えば、神話的段階とは、自然を舞台に人間が神の存在を素朴に真実在と感じている段階である。ギリシア神話における汎神論やホメロスを天啓詩人たる善の規範とする段階だろう。
一神教段階とは、人間が神との断絶を意識する段階である。トーラーの偶像崇拝の禁止などがその例である。私見では、プラトンによるホメロス批判もそうした傾向を持つように思う。
神話的一神教段階とは、その断絶を神秘主義により再び埋めんとする段階である。そこでは一神教段階において価値を否定された神話が再び見出される。
神話を形なきものに形を与える行為とみなし、そこに芸術を混同するならば、この段階において芸術は神への回帰を橋渡しする。
私見では、プラトン以降、芸術の復権を目指し美学は邁進したのであって、芸術の歴史とは、ショーレムのいうところの神話的一神教の歴史であるように感じる。
仏教においてもまた、新興の思想であった般若の思想は、仏陀の死後、素朴に民間の間で行われた仏陀の聖遺物崇拝、仏塔崇拝に価値を与えるべく邁進した。
そこにはこの新興の思想がインドにおいて勢力を得るための狙いもあったであろうが、仏陀の死という断絶を経験した信徒たちの素朴な欲求が宗教史に作用したという点で、ショーレムの宗教史観に合致するものがあると思われる。
仏教が一神教であるかどうかという議論はここではあまり意味がない。
仏教の影響を受けて組織されたと思われるヴェーダンタ学派が多分に一神教的であったことだけ留意しておこう。
何が言いたいかというと、divine, division, religionと言葉を並べてみた時に、僕が想起するのは一神教の歴史であり、かつ芸術=イメージを巡る議論の歴史なのである。
アドルノも確か芸術を魔術的段階の残滓と呼んだと記憶している。
ここでいう魔術的段階とはショーレムのいうところの神話的段階だろう。
魔術は人間と神を結びつける。
僕は何も神話的段階に戻ることを夢想するわけではない。
ただ芸術とは何か考えた時に、その歴史をショーレムが考えたようなことを抜きには語れないと感じている。
そう思った時、divine, division, religionという並びの次に、re-visionという言葉を付け加えてみたくなった。
般若の考えでは、イメージが同時に空であることを悟った時、真の認識は訪れるという。
それはつまり、現前する「もの」を、「ものであってものではないもの」と認識する瞬間ではないだろうか。
絵画とは、絵具の塊という「もの」であり、イメージという「ものではない」、やはり「もの」なのである。
現前する「もの」を、絵画として認識するためには、この2つの異なった認識を両立させなければならない。
人はいつだって絵画を絵画として認識しようとしてきたではないか。
であるならば、2つの異なった認識の両立とは、今を持っても人間に可能な認識なのではないか?

(冒頭写真の作品は、「DIVINE, DIVISION, RELIGION, RE-VISION」より「傷ついた子ども」F25)

「ひと、ヒト、人、ひとり というグループ展」出展のお知らせ

nasuohshima

【会期】
<グループ展>
「ひと、ヒト、人、ひとり というグループ展」
part1 6月8日(月)‐6月13日(土)に出品致します。

※展覧会自体は、part2 6月15日(月)‐6月20日(土)まで続きますが、僕の作品はpart1までの展示です。

【会場】
Gallery K
〒104-0031
東京都中央区京橋3-9-7京橋ポイントビル4F
Tel/Fax.03-3563-4578
e-mail : galleryk@nifty.com
http://homepage3.nifty.com/galleryk/
地下鉄「銀座」駅から徒歩6分
地下鉄「京橋」駅から徒歩2分

映画「アマデウス」、印象に残っているシーンがある。確かモーツァルトが「魔笛」の作曲中、彼に曲を依頼した劇団を夜中に訪ねたシーンだ。ピアノに向かう彼の背中では、骸骨が、眼を剥き出しにして笑う、劇団員の手の中で、これまたからからと笑っている。まるでそら今に追いつくぞ、と彼を追い立てるように。死に追い立てられ、死に追いつかれないために、モーツァルトはあの気違いじみた「魔笛」の序曲を演奏する。笑いながら。汗を流しながら。

死に追い立てられた時、僕らは一体どんな顔をするのだろうか。笑い、祈り、諦め、対峙、あるいは同化。死と同化した人間は、自身の墓場を求めて突き進む。そこが死人の居場所であるのだから。現在の日本は、後世に「死に追い立てられた時代」として記憶されるだろう。死と同化してしまえば最後、政治も、生命も、死人のように笑い、自身の墓場へ突き進むのだ。笑いなさい。死神の鎌で、身体をくすぐられているかのように。

このシリーズに着手して間もない頃、僕は夢の中で声を聞いた。

「俺の墓は何処だ」

はじめ僕はその声を、記憶されずに死んでいった人間たちの、記憶という墓標を求めて彷徨う声だと考えていた。それは間違いだったのかもしれない。あの声は、死に追い立てられ、死と同化し、墓場を求めて彷徨う僕自身の声だったのかもしれない。

6月8日より始まる、「ひと、ヒト、人、ひとり というグループ展」へのお誘いに、僕はすぐさま飛びつきました。まるで死に追い立てられているかのような今の日本で、「人」は一体どんな姿を帯びるのか。ゴヤの「サトゥルヌス」や、インドの仏教彫刻の姿勢や手の意味に、人間の在り方の象徴としての「立ち姿」というものを感じ、僕自身もそれを制作しようと考えていた矢先のお誘いであったためです。今回出品致します「誘惑、死に追い立てられる男」という作品は、文字通り死に追い立てられる人間の絵です。見る人が、僕と同じように、自身を含めた社会や世界が、死に追い立てられていると感じるのならば、描かれた男の「立ち姿」に、何かを見て取って頂けるかもしれない。そうであればと考えています。

死に追い立てられた時、僕らは一体どんな顔をするのだろうか。お忙しいところとは思いますが、何卒よろしくお願い致します。