divine, division, religion

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divine, division, religionと言葉を並べてみる。
神性、分割、そして再結合と訳してみたい。
re-ligionという言葉は、今日では宗教を意味するが、語源は再結合に近い。
宗教とは、人間が神との繋がりを感じようという文化なのだろう。
ゲルショム・ショーレムは『ユダヤ神秘主義』の中で、神秘主義を宗教史における「神話的一神教」段階とした。
それはショーレムの考える宗教の段階、神話的段階、一神教段階、神話的一神教段階という階梯のもとに定義される。
かいつまんで言えば、神話的段階とは、自然を舞台に人間が神の存在を素朴に真実在と感じている段階である。ギリシア神話における汎神論やホメロスを天啓詩人たる善の規範とする段階だろう。
一神教段階とは、人間が神との断絶を意識する段階である。トーラーの偶像崇拝の禁止などがその例である。私見では、プラトンによるホメロス批判もそうした傾向を持つように思う。
神話的一神教段階とは、その断絶を神秘主義により再び埋めんとする段階である。そこでは一神教段階において価値を否定された神話が再び見出される。
神話を形なきものに形を与える行為とみなし、そこに芸術を混同するならば、この段階において芸術は神への回帰を橋渡しする。
私見では、プラトン以降、芸術の復権を目指し美学は邁進したのであって、芸術の歴史とは、ショーレムのいうところの神話的一神教の歴史であるように感じる。
仏教においてもまた、新興の思想であった般若の思想は、仏陀の死後、素朴に民間の間で行われた仏陀の聖遺物崇拝、仏塔崇拝に価値を与えるべく邁進した。
そこにはこの新興の思想がインドにおいて勢力を得るための狙いもあったであろうが、仏陀の死という断絶を経験した信徒たちの素朴な欲求が宗教史に作用したという点で、ショーレムの宗教史観に合致するものがあると思われる。
仏教が一神教であるかどうかという議論はここではあまり意味がない。
仏教の影響を受けて組織されたと思われるヴェーダンタ学派が多分に一神教的であったことだけ留意しておこう。
何が言いたいかというと、divine, division, religionと言葉を並べてみた時に、僕が想起するのは一神教の歴史であり、かつ芸術=イメージを巡る議論の歴史なのである。
アドルノも確か芸術を魔術的段階の残滓と呼んだと記憶している。
ここでいう魔術的段階とはショーレムのいうところの神話的段階だろう。
魔術は人間と神を結びつける。
僕は何も神話的段階に戻ることを夢想するわけではない。
ただ芸術とは何か考えた時に、その歴史をショーレムが考えたようなことを抜きには語れないと感じている。
そう思った時、divine, division, religionという並びの次に、re-visionという言葉を付け加えてみたくなった。
般若の考えでは、イメージが同時に空であることを悟った時、真の認識は訪れるという。
それはつまり、現前する「もの」を、「ものであってものではないもの」と認識する瞬間ではないだろうか。
絵画とは、絵具の塊という「もの」であり、イメージという「ものではない」、やはり「もの」なのである。
現前する「もの」を、絵画として認識するためには、この2つの異なった認識を両立させなければならない。
人はいつだって絵画を絵画として認識しようとしてきたではないか。
であるならば、2つの異なった認識の両立とは、今を持っても人間に可能な認識なのではないか?

(冒頭写真の作品は、「DIVINE, DIVISION, RELIGION, RE-VISION」より「傷ついた子ども」F25)