「確信の凝固展」開催のお知らせ

確信の凝固展圧縮01

【会期】
<個展>
「確信の凝固展」

2015年9月14日(月)‐9月19日(土)
11:30-19:00(sat.-17:00)

【会場】
Gallery K
〒104-0031
東京都中央区京橋3-9-7京橋ポイントビル4F
Tel/Fax.03-3563-4578
e-mail : galleryk@nifty.com
http://homepage3.nifty.com/galleryk/
地下鉄「銀座」駅から徒歩6分
地下鉄「京橋」駅から徒歩2分

 

9月14日から開催する個展に、「確信の凝固展」というタイトルを付けた。
画面の中で、画家が、絵画が成立したと確信する瞬間と如何なるものか。
痕跡にまで解体された絵画において、その条件とは、イメージ?
イメージとは最も個人的なものか。分節化。マーヤー。
独善であり、その意味で人は孤独なのか?


誰かが夜の火の粉に神を観た。
誰かが夜のとばりを裂いて確信した。
その確信を伝えておくれ。
たとえそいつが、意味を成さない呻きになるとも。

映画「アマデウス」、印象に残っているシーンがある。確かモーツァルトが「魔笛」の作曲中、彼に曲を依頼した劇団を夜中に訪ねたシーンだ。ピアノに向かう彼の背中では、骸骨が、眼を剥き出しにして笑う、劇団員の手の中で、これまたからからと笑っている。まるでそら今に追いつくぞ、と彼を追い立てるように。死に追い立てられ、死に追いつかれないために、モーツァルトはあの気違いじみた「魔笛」の序曲を演奏する。笑いながら。汗を流しながら。

死に追い立てられた時、僕らは一体どんな顔をするのだろうか。笑い、祈り、諦め、対峙、あるいは同化。死と同化した人間は、自身の墓場を求めて突き進む。そこが死人の居場所であるのだから。現在の日本は、後世に「死に追い立てられた時代」として記憶されるだろう。死と同化してしまえば最後、政治も、生命も、死人のように笑い、自身の墓場へ突き進むのだ。笑いなさい。死神の鎌で、身体をくすぐられているかのように。

このシリーズに着手して間もない頃、僕は夢の中で声を聞いた。

「俺の墓は何処だ」

はじめ僕はその声を、記憶されずに死んでいった人間たちの、記憶という墓標を求めて彷徨う声だと考えていた。それは間違いだったのかもしれない。あの声は、死に追い立てられ、死と同化し、墓場を求めて彷徨う僕自身の声だったのかもしれない。