パウルクレーと天使

takagiyosuke15-02

スイスのベルンにある、パウル・クレー・センターで見たクレーの晩年のデッサン、「天使」のシリーズを今もよく覚えている。
それ以来、天使という在り方が頭から離れない。
それはなにも羽があってにこにこ笑っていて、というような造形的な興味ではなく、やはりその「在り方」についてだ。
宮下誠という学者が書いているように、天使とは彼岸と此岸の中間領域でその形を得る。
来る者であり、去る者であり、表象不可能の表象であり、本来断絶の向こうにいる超越者と人間を繋ぐ存在である。
超越的特徴を持つにも関わらず、表象可能なのだ。
厳密な神学における天使の定義についてはよく知らないが、僕はそのように理解している。
両義的な様態。
こんな詩があった。
「私は天使が戸を叩く音を聴いた。
門を開けても、そこには誰もいなかった。
あれは紛れもなく天使だったのだ」
彼は天使の姿を直に見ていないにも関わらず天使の存在の確信する。
門戸を叩く音=来る者、不在=去る者。
ふと思い出すのは、如来を意味するタターガタというサンスクリットは、同時に如去と漢訳される時があることである。
サンスクリットは母音が連続するとその母音が結合するため、タターガタの長母音を分解して語義を解釈するにあたって、「かくの如く来る」、「かくの如く去る」と2つの意味で解釈することが両方とも妥当であるためだ。
つまり仏と天使は両者とも来る者であり去る者、しかもそれが同時に起る、このような存在の様態なのである。
絵画、つまりイメージも同じではないだろうか。
イメージは絵具という物質から来る、同時にそれはやはり絵具にすぎず、イメージは去る。
これが直線的な時間感覚ではなく、同時に、しかも永久に起こり続ける。
絵画は物質であることをやめることはできず、イメージであることをやめることもできない、とするならば、絵画は天使なのではないか?
絵画で天使であるとすれば、絵画は我々をどの存在の地平、あるいは意識の階層に運んでくれる?
そこにどんな意味がある?