『マリアナ・ピネーダ』に於ける2つの自由part 1

    「自由」とはわたしのこと、愛がそう望んだのだから!

    ペドロ!あなたは「自由」のために去ったのね。

    「自由」とはこのわたし、人びとに傷つけられた!

    愛よ、愛よ、愛よ!永遠に孤独なものよ!

  時として、作品の中に現れた葛藤は、研究室的な権威付きの「自由」よりも苛烈に人の心に影響を与える。1927年のこと。場所はバルセローナ。マルガリータ・シルグとその劇団は、時代の天才・サルバドール・ダリの美術に乗って、ロルカの『マリアナ・ピネーダ』を上演した。バルセローナ、そしてダリが育てたロルカというテーマでも書くべきことは山ほどあるのだが、まずはロルカが上演に際して直面した困難について多少述べるに留めよう。

  『マリアナ・ピネーダ』は史実を基に描かれた作品である。ナポレオンによる侵略を経た後、復位したフェルナンド7世統治下のスペインは、絶対王制と立憲主義の間で行われた凄惨な殺戮の時代であった。グラナダに住むマリアナ・ピネーダは、自由派の1人として逮捕されていた、従弟であるフェルナンドの脱獄を手引きする。事が発覚し、彼女がその罪を問われた時、フェルナンドはそこにいなかった。「法・自由・平等」という自由派のスローガンが刺繍された、彼女の手による旗が決め手となった。1831年5月26日、密告を拒んだマリアナはグラナダに、彼女の生きた街に建てられた処刑台へ登る。その後、彼女の生きた証はロマンセとして、グラナダに生きる人々の口ずさむ唄の中に息づくことになる。同じくグラナダに育ったロルカは、1923年に樹立したプリモ・デ・リベラによる軍事独裁政権が支配するその土地で、マリアナのロマンセを語り直す。その試みは政治状況に付きまとう困難に追われることとなり、戯曲の成立年代に関して多少の曖昧さや伝説を生み出すことになる。

  ロルカ曰く、「私はこのドラマの叙事性には焦点を当てませんでした。マリアナを、抒情的で天真爛漫、かつ庶民的な女性と感じとったのです。それゆえ、歴史的にみて正確なものというよりは、広場で語る人たちにより心地よく変形された、あの物語風の解釈を取り入れたのです」。『マリアナ・ピネーダ』に、「3つの版画による詩劇」という副題が付けられているように、ロルカは人々を喜ばせる語り部のように、素朴な大衆版画家のように、生活に根付いたロマンセを「心地よく変形」させて唄い直す。当然それは、あの‘ロマン主義’的な性格のものになる。ロルカ曰く、「この作品は既成のものにはない響きがあると思います。マリアナ・ピネーダの魂のごとく天真爛漫なドラマが取り扱われています。その背景には、私の好きな版画の雰囲気があり、ローマン主義のあらゆる美しいテーマがその中で利用されています。また、ローマン主義のドラマでもないことは言うまでもないでしょう。なぜなら、今日ではPastiche、すなわち過去のドラマは真剣には作られないからです」。ロルカの作品の政治的態度というものは、様々な立場から取りざたされ、一般に混乱した解釈の下に理解されている。『マリアナ・ピネーダ』に現れるロマン主義的なモチーフについて、戯曲を取り巻くスペインの政治状況について、そしてロルカの言うところの「ローマン主義のドラマでもない」という意味について、はっきりとして説明をロルカの言葉から見出すことはできない。確かなこととして、『マリアナ・ピネーダ』には2つの自由が描かれている。ドン・ペドロが体現する自由、そしてマリアナが体現する自由。つまり、正義への愛と、1人の男への愛だ。この2つから、ロルカの政治的態度を読み取ることができるかもしれないが、それは野暮というものだろう。

(続く)