本と小品

〇パウル・クレーの小品を評して、瀧口修造は「あるいは膝の上で、しずかに読むのにふさわしい絵だといえるかも知れない」と書いた。詩なり小説なり、本を開いてそこに眼を落とせば、たちまち活字の描写する世界に立つことになる。自らが現にいる場所は、ほとんど問題にならなくなるか、しばしば忘れ去られてしまう。これはほんとんど観念的で、ヴィジョン的、そしてパーソナルな経験の形である。

〇小品、とりわけドローイング作品の展覧会の経験は、この経験に近い。一枚一枚近づいては遠ざかり、次へ進みながら、自らが現にいる場所から、作品の世界に入っては戻る。あたかも書物を開いては閉じるように。一枚ずつ頁をめくるように。

〇大きな画面の作品で構成された展覧会の場合には、こうした経験に加え、作品とそれが掛けられている壁との関係、そして周りの作品と作る空間に於ける自らの位置に対する意識、という経験が可能になる。つまり自らが現にいる場所が、経験の要素として重要なものになる。前者の経験が観念的でヴィジョン的ならば、後者は生理的とでも言えようか。

〇こうした経験の違いは、作品が要請するのだろう。目下、私の作品は前者の構造を要請するものだと思われる。個人的には、作品空間に置かれた自分の位置を楽しむような経験も、画面に一枚一枚入り込んでいく経験も、両方を大切に思っているので、両者に耐えうる作品、あるいは現在の作品の見せ方を考えていきたい。

〇とはいえ、こうした議論はあくまで作品にとって二次的なもので、本質であるとは思えない。表象の操作内容がそのまま作品の内容、あるいは芸術であるかのような議論は多く見かけるが、あまり同意できない。表象の操作内容は、作品内容の要素ではあるが、それのみではなんとも味気ない。

2017-09-18

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