セッションNo.006階段の前で天使が…

◯「セッションNo.006 階段の前で天使が…」F15 2018
階段の前で
天使が途方に暮れている
行きか帰りか
そんなことは僕の知ったことではない
◯天使など存在しない。そう断言することは容易い。しかしそうすると、何らかの形で天使の存在を確信した人間のその経験内容を否定することになる。こうした経験を、ある種“客観的”な記述に置き換えることもまた容易い。しかしそうすると、表現の、あるいは経験のかくも人間的な多様性が失われる。
◯天使は存在する。そう断言することの儚さも我々は知っている。問題は“天使”という語が今現在意味するもの、あるいはそれを聞いた人間に生じる効果というものが、それぞれに大変異なるという点だ。それは文化なる基盤の共通性が今日非常に脆弱になっているということにも基因する。しかしそれは程度の問題であって、万人に共通の神話や、宗教、はたまた言語などというものはあまりにも強権的で排他的で面白みがなく感じる。(この意味で完璧な翻訳マシーンだのAIの芸術だのというメディアアーティストですか?さっぱり理解ができん。商業ロックバンドの成功像くらいの野心しか持たない見せかけ“アーティスト”を信用してはならない。あれは芸術とは別種の職業だ。)
◯天使が存在するか存在しないかという判断、あるいは天使とは何かという定義にあまり意味はない。大切なのは、“天使”という語を通してその人に顕れたもの、身体的あるいは精神的な作用を検討すること、そしてそれこそがその人にとっての“天使”と再びなること、つまり“天使”という語が再びその指し示すものとの繋がりを取り戻し、生命を取り戻すことだ。前言語的な知覚に対し与えられた墓標としての語、この場合は“天使”だが、これを通して再び語の以前にあったものに戻ることである。ただし、戻った先は各々違う場所ということになるが。こうして、語を生き直させるということ、この作業が絶え間なく続くということ、これが通常の言語とは違う詩の言語なのではなかろうか(注1)。
注1:なぜなら通常の言語に於いてここまで語の指すものが流動的になってしまうと、コミュニケーションは成立しない。
◯まさに、これは線にも同じことが言えるだろう。以上の文章中の“語”を“線”に、同様に“断言”を“描写”に、“聞く”を“見る”に置き換えてみればいい。さあ、我々の“天使”は階段を前にして、どちらへ進むのだろうか。

06/08/2016