坂口安吾「不良少年とキリスト」

◯坂口安吾の「不良少年とキリスト」という文章を読んだ。太宰治の自殺について書いた文章である。一見スカスカの、それこそ三文通俗週刊誌の文章のような、いや実際とんでもなく軽い文章であるが、その内容たるや、何というかとても切ないものである。それこそ僕の眼には鉄人のようにみえる安吾が、ペンではなく、飲み屋で酔っ払いながらこぼしている言葉のような、そんな趣きがある。切ない。なんだか独り言のような文章だ。いやもしかしたら死んだ太宰にくどくどと絡んでいるのかもしれない。
◯太宰治の作品を嫌う人間は、それを愛読する人間と同じくらい多いように思われる。実際僕も『人間失格』などはそれこそ安吾の言うように「いやらしく」思えてしまい好かない。ただ『ヴィヨンの妻』なんてものには、変な言い方だが、何か立派でない神々しさのようなものを感じてしまう。一貫した思想性なんてものではない、最早ある種のしょうもなさが魅力なのか、ただそれがただのしょうもなさではなく、安吾が言うような太宰の「誠実さ」の上にあるからこそ、何やら神々しく見えるのかもしれない。いやしょうもないことには変わりないが。
◯ただこの点は重要に思える。しょうもない人間は大勢いる。ただしょうもない人間が本当にしょうもなくなると、飲み屋で夜な夜な集まっては傷を舐めあって、あげくに共同生活など始めたりして、「サーヴァイブ」などと生きていれば当たり前のことを持ち出して悦に浸る。しょうもなくとも、孤独に戦う人間こそ作品を生み出す人間だ。彼こそがしょうもなさを誰よりも理解する。群れるしょうもない人間は、しょうもなさのディレッタントだ。
◯安吾の文章から少し引用。「思想とは、個人が、ともかく、自分の一生を大切に、より良く生きようとして、工夫をこらし、必死にあみだした策であるが、それだから、又、人間、死んでしまえば、それまでさ、アクセクするな、と言ってしまえば、それまでだ。太宰は悟りすまして、そう云いきることも出来なかった。そのくせ、よりよく生きる工夫をほどこし、青くさい思想を怖れず、バカになることは、尚、できなかった。然し、そう悟りすまして、冷然、人生を白眼視しても、ちッとも救われもせず、偉くもない。それを太宰は、イヤというほど、知っていた筈だ。太宰のこういう「救われざる悲しさ」は、太宰ファンなどというものには分からない。太宰ファンは、太宰が冷然、白眼視、青くさい思想や人間どもの悪アガキを冷笑して、フツカヨイ的な自虐作用を見せるたびに、カッサイしていたのである。太宰はフツカヨイ的では、ありたくないと思い、もっともそれを呪っていた筈だ。どんなに青くさくても構わない、幼稚でもいい、よりよく生きるために、世間的な善行でもなんでも、必死に工夫して、よりよい人間になりたかった筈だ。それをさせなかったものは、もろもろの彼の虚弱だ。そして彼は現世のファンに迎合し、歴史の中のM・Cにならずに、ファンのだけのためのM・Cになった。」

16/08/2018