詩的言語と詩的な線

     詩的言語とは、端的に言って、日常的言語の顛倒を基本とする言語である。例えば、詩人が「雪の始まりと終わり」と発する時、この表現は、それが日常的言語として機能する際には意味するであろう、単なる気象現象一般のみに志向しない。ある人にとっては、「閉塞と解放」であったり、「沈思と行動」であったり、もっと個人的な記憶に結びついた何かであったりするだろう。詩的言語は、我々の日常的言語が、漠とした了解によって保つ語とその意味するものの結びつきを断ち切る、もっと言えば作り直してしまう。この意味で顛倒である。

     同様の現象が絵画においても起きているかもしれない。大胆に言ってしまえば、「詩的線とは、端的に言って、日常的線の顛倒を基本とする線である」となるだろうか。日常的線なるものを日常的言語と同じように理解することはできないが、要するにただの線でしかないような線と考えたい。単なる線の塊が、突如「絵」となる瞬間がある。もちろん線はただ線であるだけで造形要素として美しく、変質など全く意に介さないという立場もあるだろうが、何というかこの議論は、眼に見えているもの中に、眼には見えない何かが確かにいる、とどうしても思ってしまうような人に向けて書いているので、この際それは脇に退けてしまう。「眼には見えない何か」とは如何なるものか、本当にそんなものがいるのか、という問題については、それを確信してしまう人間の経験についてまず議論する必要があり、ここではまた別の問題となってしまうので、また別の機会に。

     さて、単なる線を一本また一本と重ねていく内に、それが変質する瞬間がある。それはとどのつまり、語という我々の日常に属するものが、組み合わせかどの要因かは分からないが変質し、普段と違う振る舞いを始める、その瞬間とパラレルである。むしろ詩人は積極的にこの転覆を意図するだろうし、線描家が絶望的に線を重ねていくのも、彼にとってのこの希望を、視界の端に捉えながらであるかもしれない。

13/sept/2019