絵の中に何かいるという確信

自分の絵を見ながらはっきりと感じるのは、やはりここに描かれた奴らが”本当にいる”ということだ。それはもちろん普通の意味での”いる”とは違うし、これがただの絵だと言うことはわかっているのだが、それでもこうして絵を見ている間だけ、その間だけは確かにこいつらは”いる”のだ。恐らくこれは僕の思い違いか、絵画の神秘のどちらかだろう。”何かいる”ということが、絵画の神秘の根っこであるような気がする。

あわや雨

あわや雨

さて彼は

渡しそびれた花束の

庇う人

の賜う人

は私

河岸の渡し

の腹の足し

街映る

水面

にさす棹の先

朝まだき

出し抜けに

この距離照らし

声枯らす

振り向けば羽

振り向けば羽

は兼ねてからの鐘

の音の根は姉

の寝姿の閨

に踊る人影ありや

こりゃアリア

残りゃダリア

誰や

詩人と鍵

だが彼が「カシワ」と言ったときーはっきりと、どうして?ー語は彼の内に留まる、役に立たなかった鍵が、手の中で重みを増すように。

                                    ーイヴ・ボヌフオア「再び矢の落ちるところ」

詩人が出会うものは、これこれの人でありものであり、同時に謎である。彼はその扉を開けようとしない。彼は知っている、一度開けてしまえば、ひょうと風は吹いて、部屋が空になってしまうだろうということを。手には鍵、語。

2020/04/12

見えなかったものが見える

      一度書き散らして放置した線の塊の中に、その時は何も見えなかったのに、しばらく経って、それも何も描かない時間がしばらく続いたあとに、びっくりするほど色々なものを見たりする。なぜだろう。その間に自分の中に溜まったものが一挙にに吹き出てくるからなのだろうか。しかしそうしたイメージは僕にとってまたびっくりするほど他人だ。

 

08/oct/2019

要素を剥ぎ取る

     絵を見る能力、という問題が重要になるにつれ、作品から実体的な要素を剥いでいった。その結果が金色の作品シリーズからの変化に表れているだろう。とはいえやはり、ものを扱う作業であるため、こうして予期せぬ物質的要素が入り込んでくる。それはそれで、自制の厳格さと同じくらいいものだ。

TakagiYosuke15-13

25/sept/2019